みんなに愛された良寛さま

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良寛とは

江戸時代後期の禅僧、詩人、歌人、書家。
俗名は山本栄蔵。
18歳で禅僧を目指し、厳しい修行を行い34歳で諸国修行の旅に出る。
寺をもたず、日々托鉢で暮らす。真言宗や浄土宗、日蓮宗、神道にも通じた。
天保2年74歳で遷化。

江戸時代末期の禅僧、詩人、歌人、書家。俗名は山本栄蔵。
18歳で出家し、厳しい修行を行い34歳で諸国修行の旅に出る。
寺をもたず、日々托鉢で暮らす。真言宗や浄土宗、日蓮宗、神道にも通じた。天保2年74歳で遷化。

良寛の生涯
画像:良寛

良寛は宝暦8年(1758)越後国出雲崎(現・新潟県三島郡出雲崎町)の名家、町名主で回船問屋の橘屋山本家に生まれた。
幼名を栄蔵といい、4男3女の長男。父、泰雄は名主(庄屋)にして、町にある石井神社の宮司を務め、以南という俳人でもあった。
栄蔵(良寛)は、7歳ころから漢学者・大森子陽の塾で地蔵堂(現・燕市分水)にある「三峰館」に通い、中国の古典も熱心に学んだ。

しかし、18歳で名主見習い役になったばかりの栄蔵は、突然出家の準備のため尼瀬の曹洞宗光照寺に身をよせ剃髪してしまう。
栄蔵22歳の時、光照寺に備中玉島(現・岡山県倉敷市)の円通寺の住職・国仙和尚が訪れた。ここで栄蔵は出家・得度し、良寛という法名を与えられた。
良寛は国仙和尚の崇高なる人柄に感銘し円通寺で約12年間修業し、禅僧としての卒業証書「印可の偈」を受けた後、諸国行脚の旅に出る。

寛政8年(1796)に帰国。寛政9年(1797)40歳の頃から国上山(現・燕市)にある国上寺の五合庵で約20年間を過ごす。
その後10年間は五合庵のふもとにある乙子神社の草庵に移り住む。文政9年(1926)に国上山を離れて、島崎(現・長岡市)の名家・木村家に移住する。
その頃、貞心尼と出会い和歌を詠みあい晩年心温まる交流が続いた。天保2年(1831)、木村家で息を引き取る。享年74歳。

良寛の作品

良寛は曹洞宗の僧侶で、師の大忍国仙や宗祖道元の教えをよく守り、生涯、寺を構えず、妻子を持たず、物質的には無一物に徹し、清貧の思想を貫いた。
良寛の書は、自作の詩や歌をかいたものを中心に楷書、行書、草書、かな、手紙など和様の最高峰、日本美の極致と絶賛される。俳句は百首ほどだが「たくほどは風がもてくる落葉かな」など世界的に知られる名句を詠んでいる。
そのほか、子どもたちとまりつきやかくれんぼをして遊び、多くの逸話を残し、子どもから大人まで広く親しまれている。禅、詩、歌、俳句、書、逸話などを総合した良寛の人間性が、多くの人々から敬慕されている。

燕市は、良寛が厳しい修行と諸国行脚の末に移り住み、長く定住した地であり、五合庵・乙子神社草庵・大森子陽の塾に通っていた頃下宿していた中村家、良寛の良き詩友・理解者であった阿部家・解良家・原田家などがあり、各地にゆかりの史跡や歌碑などが点在し、良寛の心・感性にふれることができる。

 
良寛の作品

良寛の逸話

月見坂

江戸の儒者·亀田鵬斎が訪ねてきたとき、酒を買いに行った良寛が戻らない。
鵬斎が坂を下りて迎えに行くと、五合庵の近くにある松の根元に腰をおろし、月のあまりの美しさにお酒を買うのも忘れて無心になっている良寛なのでした。

 
竹の子

五合庵の脇の便所に生えてきた竹の子が伸び屋根につかえそうになりました。
かわいそうに思った良寛は、ろうそくに火をつけて屋根に穴をあけようとしましたが便所をみんな焼いてしまいます。
生きものを慈しむ心が伝わります。

 
天上大風

燕で托鉢を終えた良寛が中ノロ川の堤で子どもたちの凧揚げを見ていると、子どもが「凧にしたいので紙に「天上大風」と書いてほしい」と頼んできました。
良寛は喜び、書いて与えます。
子どもたちの頼みには快く応じました。