おいらん道中、その始まりは
大河津分水『感謝の桜』を愛でる
人々へのおもてなしの心だった。
越後平野をうるおし、日本海へとそそぐ日本一の大河・信濃川。
かつては暴れ川として恐れられ、洪水のたびに氾濫を繰り返していた。
大河津分水の最初の請願は江戸時代。莫大な費用がかかることもあり、
請願活動は幾度となく繰り返された。政府が動いたのは最初の請願から
200年経過した1907年、越後平野一帯が一か月に渡り水浸しとなった
『横田切れ』を機に、ついに大河津分水工事が始まった。
当時最新の技術を駆使したとはいえ、24年の歳月と延べ1千万人の労力、
日本海へと流れる約9㎞の分水路、1931年、大河津分水はようやく完成した。
この世紀の大事業を記念して、1910年頃から住民が堤防に桜を植えたのが
大河津分水桜並木の始まりだ。

分水おいらん道中は、1924年頃、地元の有志が
花見客向けに行った仮装行列が起源といわれている。
その後、分水の桜と景勝を全国的に宣伝しようと
「分水路花の会」が発足。行楽客の増加を機に、
1936年頃から賑やかに挙行されてきた。
戦争の影響で中止されていた期間もあったが、
日本の復興も軌道に乗った1949年4月23日、
桜並木の下で華々しく復活した。

新潟県民の悲願であった
「大河津分水工事」。
工事完成を祝った桜植樹。
「おいらん道中」仮装行列披露は、
集う観桜客へのおもてなしと
大河津分水路への
感謝の気持ちだったのではないでしょうか。
