良寛歌碑めぐり

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良寛は、宝暦8年(1758年)出雲崎の庄屋に生まれ、厳しい修行と諸国行脚の末、
国上山の中腹にある五合庵を定住の地としました。
ここで約20年過ごされた後、国上山山麓の乙子神社草庵に移ります。
この時期が、良寛芸術として最も円熟していたころだといわれています。

良寛歌碑 良寛史料館庭内
昭和56年(1981年)建立。良寛史料館竣工を記念して建てられました。

〔碑文〕
ひとによみておくる
わがいほを たづねてきませ あしびきの
やまのもみぢを たをりがてらに
〔碑文の読み下し文〕
わが庵(いお)を 訪(たづ)ねて来(き)ませ あしびきの
山のもみぢを 手折(たを)りがてらに

〔解釈〕
私の家を、どうか訪ねておいでなさい。
国上山の美しく色づいた紅葉を、折り取るついでに。
〇来ませ=おいでなさい。いらっしゃい。
〇あしびきの=「山」の枕詞
〇手折り=手で折り取る。

参考資料:『定本 良寛全集』内山知也・谷川敏郎・松本市壽(中央公論新社)

良寛歌碑 福祉会館駐車場脇
平成12年(2000年)「活力ある地域づくり支援事業」で商工会が「水野文化と良寛の里」にちなみ、良寛をシンボルイメージとして建てました。

〔碑文〕
鉢の子を わが忘るれども 取る人はなし
取る人はなし 鉢の子あはれ

〔碑文の読み下し文〕
鉢の子を わが忘るれども 取る人はなし
取る人はなし 鉢の子あはれ

〔解釈〕
だいじな鉢の子をわたしが道ばたに忘れてきたが、誰も取っていく人は
いなかった。取っていく人はいなかった。その鉢の子のいとしいことよ。
〇鉢の子=僧が托鉢で喜捨を受ける時に用いる木鉢。良寛が用いた鉢の子は現存している。

参考資料:『定本 良寛全集』内山知也・谷川敏郎・松本市壽(中央公論新社)

良寛歌碑 諏訪神社境内
平成12年(2000年)「活力ある地域づくり支援事業」で商工会が
「水の文化と良寛の里」にちなみ、良寛をシンボルイメージとして建てました。

〔碑文〕
世の中を 憂しと思へばか ほととぎす
木の間がくれに 鳴き渡るなり

〔碑文の読み下し文〕
世の中を 憂(う)しと思(も)へばか ほととぎす
木(こ)の間(ま)がくれに 鳴き渡るなり

〔解釈〕
この世の中をつらいと思うからであろうか、ほととぎすは木々の間に
隠れるようにして鳴いて飛んでいることだ。

参考資料:『定本 良寛全集』内山知也・谷川敏郎・松本市壽(中央公論新社)

良寛歌碑 北越銀行前
平成12年(2000年)「活力ある地域づくり支援事業」で商工会が「水の文化と良寛の里」にちなみ、良寛をシンボルイメージとして建てました。

〔碑文〕
いざ子供 山辺に行かむ 桜見に
明日とも言はば 散りもこそせめ

〔碑文の読み下し文〕
いざ子供 山辺に行かむ 桜見に
明日とも言はば 散りもこそせめ

〔解釈〕
さあ子供たちよ。山のあたりに行こう、桜見に。
明日見に行くといったならば、花が散ってしまうであろうに。
〇山べ=山のあたり。

参考資料:『定本 良寛全集』内山知也・谷川敏郎・松本市壽(中央公論新社)

良寛歌碑 北越銀行前
平成12年(2000年)「活力ある地域づくり支援事業」で商工会が「水の文化と良寛の里」にちなみ、良寛をシンボルイメージとして建てました。

〔碑文〕
足引の 此山里の 夕月夜
ほのかに見るは 梅の花かも

〔碑文の読み下し文〕
足引(あしびき)の 此(この)山里の 夕月夜(ゆふづくよ)
ほのかに見るは 梅の花かも

〔解釈〕
この山近い里は、夜に入って美しい月がのぼってきた。
その春のおぼろ月の下で、ほんのりと咲いている梅の花を見るのは、
なんとすばらしいことよ。

参考資料:『定本 良寛全集』内山知也・谷川敏郎・松本市壽(中央公論新社)

良寛歌碑 地蔵堂会館前
平成12年(2000年)「活力ある地域づくり支援事業」で商工会が「水の文化と良寛の里」にちなみ、良寛をシンボルイメージとして建てました。

〔碑文〕
山吹の 華の盛りは 過ぎにけり
ふるさとびと 待つとせしまに

〔碑文の読み下し文〕
山吹(やまぶき)の 華の盛りは 過ぎにけり
ふるさとびと 待つとせしまに

〔解釈〕
山吹の花を見に行こうと約束しながらやってこない人を、
私は待っていた間に、その花の盛りも過ぎて散り始めたことよ。

参考資料:『定本 良寛全集』内山知也・谷川敏郎・松本市壽(中央公論新社)

良寛歌碑 第四銀行前
平成12年(2000年)「活力ある地域づくり支援事業」で商工会が「水の文化と良寛の里」にちなみ、良寛をシンボルイメージとして建てました。

〔碑文〕
おぼけなく 法の衣を 身にまとひ
坐りて見たる 山桜かな

〔碑文の読み下し文〕
おぼけなく 法(のり)の衣を 身にまとひ
坐りて見たる 山桜かな

〔解釈〕
身分不相応にも、僧の衣(袈裟)を身につけ、坐って山桜を眺めいたことだ。
〇おぼけなく=身分不相応にも・似げなく不相応

参考資料:『定本 良寛全集』内山知也・谷川敏郎・松本市壽(中央公論新社)

良寛歌碑 中村家脇
平成12年(2000年)「活力ある地域づくり支援事業」で商工会が「水の文化と良寛の里」にちなみ、良寛をシンボルイメージとして建てました。

〔碑文〕
霞立つ 永き春日に 子供らと
てまりつきつつ この日暮らしつ

〔碑文の読み下し文〕
霞立つ 永き春日(はるひ)に 子供らと
手まりつきつつ この日暮らしつ

〔解釈〕
長くなった春の日に、子どもたちと手まりをつきながら、
この一日遊び暮らしたことだ。

参考資料:『定本 良寛全集』内山知也・谷川敏郎・松本市壽(中央公論新社)

遍澄歌碑 地蔵堂願王閣境内
明治初年(1868年)建立。遍澄は良寛の法弟。至誠庵主となり願王閣建立に力を尽くしました。
良寛のお世話もした人です。

〔碑文〕
と加ま毛て 加里者らふ遍き 飛ともなし
むぐら志今れる し起し満の三ち
釈 遍澄

〔碑文の読み下し文〕
と加(か)ま毛(も)て 加里者(かりは)らふ遍(べ)き 飛(ひ)ともなし
むぐら志今(しげ)れる し起(き)し満(ま)の三(み)ち

参考資料:『分水の良寛さま―良寛史跡めぐり』旧分水町役場

心月輪碑 大河津橋東詰
昭和57年(1982年)建立。大河津橋架け替え竣工記念として建てられました。

〔碑文〕
心月輪
良寛書

〔碑文の読み下し文〕
しんがちりん(しんげつりん)
「心、月輪(がちりん)の如し」、「心月は輪なり」の2つの読み方がなされてきましたが、単に「しんげつりん」と音読した方がすっきりしています。

〔解釈〕
「心月輪」は、ナベブタに書かれた書として有名な作品です。
「心月輪」とは真言宗の中心的な思想である月輪観のことで、両界曼茶羅(まんだら)のうち金剛界を心月輪といい、胎蔵界を心蓮華といいます。この2つの世界がそろって、宇宙を構成しているという考え方です。
丸いナベブタを見た良寛が、とっさに月輪を連想したのではないでしょうか。

参考資料:『良寛の書と風土』 加藤キ*一(考古堂)*(「人」へんに「喜」)

御名号碑 熊森長岡家
明治38年(1905年)建立。良寛の姪くま(良寛の妹たかの二女)に書き与えたものといわれています。くまは、熊森勝誓寺に嫁ぎました。

〔碑文〕
南無阿弥陀仏
釈良寛書

〔碑文の読み下し文〕

〔解釈〕

参考資料:『分水の良寛さま―良寛史跡めぐり』旧分水町役場

坡丈句碑 野中才専念寺境内
天保10年(1839年)建立。
坡丈は、俳句や和歌にすぐれた人で、良寛に字を上手に書く方法をたずねた人です。

〔碑文〕
うら波や 千鳥盤奈可ぬ 夜もあるに
七十有七  坡丈

〔碑文の読み下し文〕

〔解釈〕

参考資料:『分水の良寛さま―良寛史跡めぐり』旧分水町役場

良寛詩碑 中島大蓮寺入口
平成元年(1989年)建立。良寛の里づくり事業で旧分水町が建てました。
大蓮寺から良寛にてまりを贈った手紙があります。

〔碑文〕
一箇繍毬打又打
自誇好手無倫匹
此中意旨若相問
一二三四五六七

〔碑文の読み下し文〕
一箇の繍毬(しゅうきゅう)打ち又打ち
自ら誇る好手倫匹(りんひつ)無しと、
此(こ)中の意旨(いし)もし相問わば、
一二三四五六七。

〔解釈〕
これは、毬つきの極意を述べた良寛の代表作の一つです。
良寛は自ら「並ぶものがいない」というほどの毬つきの名人でしたが、
極意は、ただ「一二三四五六七」であると言っています。

参考資料:『良寛入門』 加藤キ*一(新潟日報事業社)*(「人」へんに「喜」)

良寛歌碑 分水北小学校々庭
昭和63年(1988年)、PTAが建立。この学校の児童入口には、創立記念に作られた良寛遊戯の図の大きな陶版がある。

〔碑文〕
このさとに てまりつきつつ こどもらと
あそぶはるひは くれずともよし
良寛

〔碑文の読み下し文〕
この里に 手まりつきつつ 子どもらと
遊ぶ春日は 暮れずともよし

〔解釈〕
この村里で、手まりをつきながら子供たちと、のどかに遊ぶ春の一日は、
たとえ暮れなくてもかまわない。
〇この里=特定の里と限定しないほうがよいようだ。

参考資料:『定本 良寛全集』内山知也・谷川敏郎・松本市壽(中央公論新社)

牧羊子之墓碑 牧ヶ花観照寺境内

〔碑文〕

碑文の文章は鈴木文臺、書は富取芳斉。

良寛句碑 牧ヶ花解良家前
平成3年(1991年)建立。
良寛の里づくり事業で旧分水町が建てました。解良叔問に宛てたと思われる手紙の末尾にある俳句。

〔碑文〕
柴焼て 志ぐれ聞 夜となり耳け里

〔碑文の読み下し文〕
柴(しば)焼(たい)て 志(し)ぐれ聞く 夜(よ)となり耳(に)け里(り)

〔解釈〕
秋のあいだに切り取って置いた木の枝を炉に焚いて、赤く燃えるありさまを
見ながら、屋根に吹きあたる時雨の音を、独り静かに聞く夜が訪れたことよ。
〇文面は、せっかく恵まれた餅と米を同家に忘れてきてしまい、それを届けてもらった礼状である。
日付は、陰暦では冬の十月五日である。餅は、稲の刈り上げを終えた祝いのものであろう。

参考資料:『定本 良寛全集』内山知也・谷川敏郎・松本市壽(中央公論新社)

良寛歌碑 渡部菅原神社登り口
平成元年(1989年)建立。
良寛の里づくり事業で旧分水町が建てました。菅原神社の粕川宅に宿をとったときに詠んだ歌です。

〔碑文〕
あまかみの かみのみさかゆ みわたせば
みゆきふりけり いつかしがうへに

〔碑文の読み下し文〕
天神(あまかみ)の 神のみ坂ゆ 見渡せば
み雪降りけり 厳樫(いつかし)が上(うへ)に

〔解釈〕
天神さまを祭ったお社の坂の途中から見渡すと、
白い雪が清めるように降ったことよ。
厳かな境内に樫の木が生き生きと繁って見える、その木の上に。
〇天神=菅原道真のこと。天満宮。
〇み坂ゆ=坂の途中から
〇厳樫=神聖な樫の木。神霊が宿るとも考えられた。

参考資料:『定本 良寛全集』内山知也・谷川敏郎・松本市壽(中央公論新社)

良寛詩碑 渡部阿部家前
平成3年(1991年)建立。良寛の里づくり事業で建てました。
阿部家に遺る数多い遺墨の中でもよく知られています。
7代定珍は良寛の外護者であり、また歌の友でもあった人です。

〔碑文〕
間庭百花発
餘香入此堂
相対共無語
春夜夜将央

〔碑文の読み下し文〕
間庭(かんてい)百花(ひゃっか)発(ひら)き
餘香(よこう)此(こ)の堂に入る
相(あい)対して共に語る無く
春夜(しゅんや)夜将に央(なか)ばらんとす

〔解釈〕
静かな庭にはさまざまな花が咲きそろい、
あふれる花の香が屋敷の中にまで流れてくる。
あなたと向かい合い言葉も交わさぬままに時が移り、
いつしか春の夜は真夜中になろうとしている。

参考資料:『良寛との旅』 齋藤達也(考古堂)
参考資料:『分水良寛さま―良寛史跡めぐり』旧分水町役場

良寛歌碑 真木山鵲齋旧居跡
平成元年(1989年)建立。良寛の少年時代からの友人鵲齋が、はじめここで分家して医業を始めたのですが、間もなく現在の原田家の地に移りました。

〔碑文〕
まぎやまによめる
こぞのはる さけにうけつる うめのはな
つらにおちけり いたづらにして

〔碑文の読み下し文〕

〔解釈〕
真木山へきて詠んだ歌
去年の春、鵲齋と三人で梅の花の下で盃をくみかわしたこの屋敷は、
今は跡形もなく、梅の花がいたずらに散っている。

良寛詩・歌碑 乙子神社境内
安政五年(一八五八)良寛が亡くなられて二十七年後、阿部定絹・小川霞山 が中心となって建立されたものです。
現存する良寛の詩歌碑では最古のものです。

〔碑文〕
生涯懶立身 騰々任天真 嚢中三升米 爐辺一束薪
誰問迷悟跡 何知名利塵 夜雨草庵裏 雙脚等問伸
(沙門 良寛書)
安散都久非 無閑比遠可耳 左遠志當天里 閑美奈川幾
之久礼能安女爾 奴礼都々當天里

〔碑文の読み下し文〕
生涯身を立つるに懶(ものう)く 騰々(とうとう)として天真に任(まか)す
嚢中(のうちゅう)三升の米 炉(ろ)辺(へん)一束(いっそく)の薪(たきぎ)
誰か問わん迷(めい)悟(ご)の跡 何ぞ知らん名利(みょうり)の塵(ちり)
夜(や)雨(う)草庵の裏(うち) 双(そう)脚(きゃく)等間(とうかん)に伸ばす
朝づく日 向ひの岡に 小牡鹿(さをしか)たてり
神無月 時雨の雨に 濡れつつ立てり

〔解釈〕
生涯、世の中でひとかどの者になろうなどという気も起こらず、
自分の天性のおもむくまま、あるがままに生きてきた。
袋のなかの三升の米、炉辺に積まれた一束の薪、身辺にはそれしかない。
迷いや悟りといった修行の跡など忘れ去り、世俗の名誉や財産にもまったく
関心がない。
いま、雨の降る夜、庵のなかにいて、のんびりと両足を伸ばして休むのだ。
早朝の明るさがにじみだした向かいの岡に、一頭の牡鹿が立っている。
今は十月、時雨の冷たい雨にぬれながら、じっと動かずに立ちつくしている。

参考資料:『良寛との旅』齋藤達也(考古堂)
参考資料:『分水町の文化財・いしぶみ編』旧分水町教育委員会

良寛歌碑 本覚院境内
昭和六十一年(一九八六)建立。
本覚院で浄財を集め、阿部家の遺墨にある歌を拡大して刻したものです。

〔碑文〕
本覚院につどひてよめる 良寛
やまぶきの はなをたおりて おもふどし かがすはるひは くれずともがな

〔碑文の読み下し文〕
本覚院に集ひて詠める 山吹の 花を手折(たを)りて 思ふ同士(どし)
かざす春日は 暮れずともがな

〔解釈〕
本覚院に集まって詠んだ歌
1.
気の合う者同士が寺に集まり、髪飾りとして折った山吹の花を髪にさし、
楽しく過ごす春の日は暮れなくともよいがなあ。
○かざす=花などを飾りとして髪やかぶりものにさす。

2.
気ごころの通じ合った者どうしが山吹の枝を髪に挿し、楽しく語り合う春の日は暮れないでほしいものだ。

1参考資料:『定本 良寛全集』内山知也・谷川敏郎・松本市壽(中央公論新社)
2参考資料:『良寛との旅』齋藤達也(考古堂)

良寛詩碑 本覚院境内
昭和六十三年(一九八八)建立。旧分水町拓本研究会が建てました。

〔碑文〕
擔薪下翠岑 々々道不平 時息長松下 静聞春禽聲(良寛書)

〔碑文の読み下し文〕
薪(たきぎ)を擔(にな)いて翠岑(すいしん)を下る
翠岑(すいしん)道(みち)平(たいら)かならず
時に息(いこ)う長松(ちょうしょう)の下(もと)
静かに聞く春禽(しゅんきん)の声

〔解釈〕
薪を背負って青々とした山の峰をくだる。その道はなかなか険しい。
たまに高い松の木の下で休み、春の鳥のさえずりを心静かに聞いている。

参考資料:『良寛との旅』齋藤達也(考古堂)
昭和六十三年(一九八八)建立。旧分水町拓本研究会が建てました。

〔碑文〕
伊づ具登毛かへ圀 春連登わが古々路 具がみの左登に 満佐る登古奈之
(良寛書)

〔碑文の読み下し文〕
いづくとも替へ国 すれどわがこころ くがみのさとに まさるとこなし

〔解釈〕
あちこちの土地に住んでみたが、わたしの心にとって、国上の里にまさるところはどこにもない。

参考資料:『良寛との旅』齋藤達也(考古堂)

良寛歌碑 五合庵境内
昭和二十八年(一九五三)建立。弥彦村境江の石工武石嘉輔氏が建てました。
碑文の上部に良寛の似顔絵があります。

〔碑文〕
あすからは わかなつまむと おもひしに きのふもけふも ゆきはふりけり
(沙門良寛)

〔碑文の読み下し文〕
明日からは 若菜つまむと おもひし野 昨日も今日も 雪は降りけり

〔解釈〕
明日から 若菜を摘もうと 思っていた野原に 昨日も今日も雪が降り続いている

■別人歌
この歌は『万葉集』の代表的歌人、山部赤人(やまべのあかひと)のものと
思われます。良寛ではない人の歌を良寛作として、誤って歌集類に収めてある 歌は百二十三首に及びます。

□新古今集・山部赤人の歌
「あすからはわかなつまむとしめしのにきのふもけふもゆきはふりけり

〔意味〕
さあ明日から若菜を摘もうとしるし(標野・しめしの)をつけておいた野原に
昨日も今日も雪が降り続いているので、いっこうに菜摘みが出来ないでいることよ

参考資料:『日本古典文学全集』(小学館)

良寛句碑 五合庵境内
大正九年(一九二〇)建立。良寛全集を著した旧分水町中島の玉木礼吉氏が、良寛全集発刊を記念して建てたものです。

〔碑文〕
堂久保登盤 閑勢閑毛天久留 於知者可難 (良寛書)

〔碑文の読み下し文〕
焚くほどは 風がもてくる 落葉かな

〔解釈〕
1.私が庵で燃やして煮炊きするくらいは、風が吹くたびに運んでくれる落ち葉で、十分間に合うことだ。
だから私にとって、この山の中での暮らしは、物に乏しくとも満ち足りていることよ。
○もて来る=持って来る。

1参考資料:『定本 良寛全集』内山知也・谷川敏郎・松本市壽(中央公論新社)分水町の文化財・いしぶみ編

萬元上人墓 五合庵境内
享保五年(一七二〇)建立。萬元上人は、国上寺の客僧で国上寺再建の功労者。
五合庵に住み五合庵と名付けた人です。

〔碑文〕
享保三季歳在戊戍
久賀躬山五合庵開基祖慧海阿闍梨
春三月二十有三烏

〔碑文の読み下し文〕
享保三季歳在戊戍
久賀躬山(くがみやま)五合庵開基祖慧(けい)海(かい)阿闍(あじゃ)梨(り)
春三月二十有三烏

〔解釈〕
享保三年三月二十三日、この地で示寂。行年六十歳。遺言により、
五合庵左隣の台地に葬った。
○慧海=萬元和尚の名(和泉国《大阪府》吉野の人)
○阿闍梨は天台宗・真言宗の僧位

参考資料:『良寛の書と風土』 加藤僖一 (考古堂)
参考資料:『分水町の文化財・いしぶみ編』旧分水町教育会

良寛歌碑 国上寺阿弥陀堂境内入口
平成二年(一九九〇)建立。良寛の里づくり事業で旧分水町が建てました。良寛自筆歌集「布留散東」の中の一首を拡大して刻しました。
良寛が国上山の自然や人情の豊かさを愛されたことが詠まれています。

〔碑文〕

〔碑文の読み下し文〕

参考資料:『分水の良寛さま』―良寛史跡めぐり(旧分水町役場)

良寛歌碑群 国上朝日山公園内外
平成六年(一九九四)建立。異業種交流会が、第五回良寛サミットin分水を記念し、
分水高校が編集した良寛の草木うた「はなのひもとく」から六首選び草木のあるところに建てられました。

〔碑文〕
(い)秋もやや うらさびしくぞ なりにける 小笹に雨の そそぐを聞けば
(ろ)秋萩の 咲くを遠みと 夏草の 露をわけわけ 訪ひし君はも
(は)道のべに すみれつみつつ 鉢の子を 忘れてぞ来し その鉢の子を
(に)あしひきの 山のたをりの 紅葉ばを 手折りてぞ来し 雨の晴れ間に
(ほ)国上山 岩の苔道 ふみならし いくたびわれは まゐりけらしも
(へ)ひさかたの あまぎる雪と 見るまでに 降るは桜の 花にぞありける

〔解釈〕
(い)秋もしだいに深まって心さびしくなってきたことよ。小笹にしきりに降る雨の音をきいていると。
(ろ)秋萩の花の咲くのが待ち遠しいでと、露のおりた夏草を分けながら、わざわざ私の庵を訪ねてくれたあなたであることよ。
(は)道ばたで、すみれを摘み摘みしているうちに、だいじな鉢の子を、置き忘れてしまったことだ。だいじなその鉢の子を。
(に)山の尾根のくぼみに色づいた紅葉の葉を、私は手で折り取ってきたことよ。雨の降りやんだ間に。
(ほ)国上山の苔の生えた岩だらけの道を、踏んで平らにし、いくたびも私は国上寺のみ寺まで、やってきたことよ。
(へ)空一面に曇って、雪が降るのかと見まちがえるほどに、降ってくるのは桜花びらであることよ。

参考資料:『定本 良寛全集』内山知也・谷川敏郎・松本市壽(中央公論新社)